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46話 前夜

last update publish date: 2026-09-11 16:30:38

 謁見の前日。

 朝から、フィオナと報告書の最終確認をした。

 二人で机に向かって、一行ずつ確認した。数字に間違いがないか。論理の流れが途切れていないか。言葉が難しすぎないか。

 午前中に、第一部から第三部まで確認した。

「第四部」

 フィオナが言った。

「魔法師の負担軽減の部分、ここが一番反発を受けやすい」

「そう思います」

「でも、ここが一番大事でもある」

「そうです」

「クロヴェルが何か言ってきたら、どう返しますか?」

「学院のデータを使います。消毒液を採用してから、治癒魔法師の一人あたりの対応件数がどう変わったか。そのデータが、師匠の確認書に入っています」

「魔法師の負担が実際に減った、という数字ですね」

「そうです。主張ではなく、事実で返す」

 フィオナが頷いた。

「想定問答を、もう一度やっておく?」

「お願いします」

 フィオナがクロヴェルの役になった。

「アッシュフォード商会の活動は、魔法師の職域を侵している。石鹸と薬草薬が広まれば、治癒魔法師の仕事が減る。それは、王国の魔法体制を弱体化させることになる」

 エリナが答えた。

「学院の医療棟のデータをご確認ください。消毒液の採用後、治癒魔法師の一人あたりの対応件数は、重篤な症例に集中するようになっています。軽症の処置に追われる時間が減り、本来魔法師が対応すべき場面に力を使えるようになっています。これは弱体化ではなく、強化です」

「エリナ」

「はい」

「それは詭弁だ。魔法師が不要になれば、魔法の権威そのものが失われる」

「魔法師が不要になるとは考えていません。今まで魔法師が届けていたものを、魔法師が届けられない場所でも届けられるようにするだけです。魔法師にしかできないことは、今後も魔法師が担います。その役割は変わりません」

 フィオナが声を戻した。

「良い。落ち着いている」

「少し練習しました」

「わかる。でも、当日は紙を見ながらではない。今のように、自分の言葉で話せれば十分だ」

「ありがとう」

 昼過ぎ、アルバ殿下から使いが来た。

 明日の段取りの最終確認の書状だった。

 エリナとゴードンが、謁見の間に入る時刻。立つ場所。発言を求められる順番。

 読んで、ゴードンに確認した。

「問題ありません。一点だけ確認します。報告書を手で持ちますか。それとも、事前に読んでいただいた前提で話しますか?」

「前日に陛下と高官に届けてある。だから、事前に読んでいただいた前提で話します。手には持たない」

「そうすると、発言中に数字を引用する時に、確認できなくなります」

「全部、頭に入っています」

「確かに、そうでしょうね」

「数字は、入っています。でも、最初の話は、紙を見ないで話したい。おばあさんの孫の話から、自分の言葉で入りたい」

「わかりました。それが良いと思います」

 夕方、フィオナが「少し歩かないか」と言った。

 王都の街を、二人で少しだけ歩いた。

 ゴードンは宿で書類の最終整理をしていた。

 冬の王都は、空気が冷たかった。石畳に霜が残っていた。

 ルシェムより人が多い。でも、今日の街は少し静かに見えた。自分が静かなのかもしれない、とエリナは思った。

「明日、緊張しますか」

 フィオナが歩きながら言った。

「する」

「いつもより?」

「いつもとは違う種類の緊張です」

「どう違う?」

「いつもの緊張は、失敗しないように、という緊張だった」エリナが言った。「でも明日のは、それだけではない」

「何が加わった?」

「届けたい、という緊張かもしれない」

 フィオナが少しだけ歩調を緩めた。

「届けたい?」

「父が残したものを、届けたい。ルシェムのおばあさんの言葉を、届けたい。一年間、みんなが積み上げてきたものを、届けたい」

「それが、今日の緊張の種類?」

「そう思います」

 フィオナが少しだけ黙って歩いた。

「私はずっと、あなたが怖いものを知らない人間だと思っていた。最初に会った時から」

「怖いものだらけです」

「でも、怖がっているように見えなかった」

「怖がっている時間が、もったいないから。怖いなら、動く方が早い」

「それが、あなたらしい。でも、今日のあなたは少し違う。緊張しているのが、見える」

「見えますか?」

「見える。でも、悪い緊張じゃない。届けたい、という緊張だから」

 二人で、しばらく石畳を歩いた。

「フィオナ」

「何?」

「王都に一人でいて、この一年、どうでしたか?」

「聞くのね」

「聞きたかった」

 フィオナが少し考えた。

「正直に言う。最初の二ヶ月は、孤独だった。知っている人間がいなくて、一から信頼を作らないといけなくて、疲れた」

「そうでしたか」

「でも、その後は変わった」

「何が変わりましたか?」

「あなたたちの手紙が来るたびに、ルシェムが動いているのがわかった。私が王都で集めた情報が、ルシェムで使われているのがわかった。私がここにいる意味が、見えた」

「意味が見えると、変わりますか?」

「変わる。自分がやっていることが、何かに繋がっていると思えれば、孤独でも続けられる」

「それは——」

 エリナが少し考えた。

「私も、同じことを感じていたかもしれません」

「どういうこと?」

「ルシェムで石鹸を作っていた時も、一人だった。でも、マリオが来て、ルナが来て、ゴードンが来た。繋がっていくことで、動けた」

「孤独から始まって、繋がっていく。それが、二人とも同じだったんだね」フィオナが言った。

「そうかもしれません」

 宿に戻ると、ゴードンが書類の整理を終えていた。

「明日の持ち物は、全部確認しました。確認書、データ、ベルダンの記録書、王都のデータ。全部、揃っています」

「ありがとうございます」

「エリナさん、明日、私はゴードンとして立ちます。アッシュフォード商会の代表として」

「はい」

「でも、その名前を使うのは、今日が最後かもしれません」

 エリナは少しだけ止まった。

「どういう意味ですか?」

「明日、報告が終われば、商会の代表は正式にエリナさん自身に移すことができます。年齢の制限が残るかもしれませんが、陛下が認めてくれれば、可能です」

「考えていませんでした」

「考える必要があります。今日のうちに」

 エリナは少し考えた。

 アッシュフォード商会の代表を、自分の名前で持つ。

 ゴードンに頼んで始めた商会だ。でも、ずっとそうするつもりではなかった。

「明日の報告の中で、陛下に確認してもらうことはできますか?」

「できると思います。アルバ殿下に事前に伝えておけば、その話を場に出すことができます」

「今夜、殿下に連絡を」

「手配します」

 夜、エリナは机に向かった。

 明日のことを、もう一度頭の中で確認した。

 謁見の間に入る。おばあさんの孫の話から始める。学院のデータを中心に据える。各町のデータを補助に使う。第四部の提言で締める。師匠が発言する。

 やることは見えている。

 落ち着いている。

 少し、緊張している。

 でも、届けたい、という気持ちが、一番大きい。

 エリナは荷物の中から、昨夜書いた手紙を取り出した。

 レインへの手紙。

 明日、謁見の間で渡す。

 封筒を手の中に持って、少しだけ考えた。

 明日、レインがそこにいる。

 同じ部屋にいる。

 エリナは封筒をそっと、上着の内ポケットに入れた。

 明日、渡す。

 寝る前に、セレーナへの短い手紙を書いた。

 お母さんへ

 今夜、王都にいます。明日、謁見の間に立ちます。

 出発の朝、お母さんが言った言葉を、今日ずっと持っていました。

『遠くを見ながら、ここも見ている』という言葉。

 ここも見ています。ルシェムを。お母さんを。

 必ず帰ります。

                                      ――エリナ――

 書いて、封をした。

 これは、帰ってから渡す。

 でも、書いておきたかった。

 ランプを吹き消した。

 王都の夜は、窓の外が少し明るかった。

 街の灯りが滲んでいた。

 明日の朝、謁見の間に向かう。

 父が何度も歩いた道を、今度は自分が歩く。

 怖い。

 でも、届けたい、という気持ちの方が大きい。

 同じ部屋に、レインがいる。

 謁見の前に、フィオナと十分話せる。

 ゴードンが隣にいる。

 一人ではない。

 エリナは目を閉じた。

 眠れるかどうかわからなかった。

 でも、眠れなくてもいい。

 静かに、明日を待つ。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 明日、父が夢見た場所に立つ。

 それが今夜、一番確かなことだった。

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