LOGIN謁見の前日。
朝から、フィオナと報告書の最終確認をした。 二人で机に向かって、一行ずつ確認した。数字に間違いがないか。論理の流れが途切れていないか。言葉が難しすぎないか。 午前中に、第一部から第三部まで確認した。 「第四部」フィオナが言った。
「魔法師の負担軽減の部分、ここが一番反発を受けやすい」
「そう思います」 「でも、ここが一番大事でもある」 「そうです」 「クロヴェルが何か言ってきたら、どう返しますか?」 「学院のデータを使います。消毒液を採用してから、治癒魔法師の一人あたりの対応件数がどう変わったか。そのデータが、師匠の確認書に入っています」 「魔法師の負担が実際に減った、という数字ですね」 「そうです。主張ではなく、事実で返す」 フィオナが頷いた。 「想定問答を、もう一度やっておく?」 「お願いします」 フィオナがクロヴェルの役になった。 「アッシュフォード商会の活動は、魔法師の職域を侵している。石鹸と薬草薬が広まれば、治癒魔法師の仕事が減る。それは、王国の魔法体制を弱体化させることになる」 エリナが答えた。 「学院の医療棟のデータをご確認ください。消毒液の採用後、治癒魔法師の一人あたりの対応件数は、重篤な症例に集中するようになっています。軽症の処置に追われる時間が減り、本来魔法師が対応すべき場面に力を使えるようになっています。これは弱体化ではなく、強化です」 「エリナ」 「はい」 「それは詭弁だ。魔法師が不要になれば、魔法の権威そのものが失われる」 「魔法師が不要になるとは考えていません。今まで魔法師が届けていたものを、魔法師が届けられない場所でも届けられるようにするだけです。魔法師にしかできないことは、今後も魔法師が担います。その役割は変わりません」 フィオナが声を戻した。 「良い。落ち着いている」 「少し練習しました」 「わかる。でも、当日は紙を見ながらではない。今のように、自分の言葉で話せれば十分だ」 「ありがとう」昼過ぎ、アルバ殿下から使いが来た。
明日の段取りの最終確認の書状だった。 エリナとゴードンが、謁見の間に入る時刻。立つ場所。発言を求められる順番。 読んで、ゴードンに確認した。 「問題ありません。一点だけ確認します。報告書を手で持ちますか。それとも、事前に読んでいただいた前提で話しますか?」 「前日に陛下と高官に届けてある。だから、事前に読んでいただいた前提で話します。手には持たない」 「そうすると、発言中に数字を引用する時に、確認できなくなります」 「全部、頭に入っています」 「確かに、そうでしょうね」 「数字は、入っています。でも、最初の話は、紙を見ないで話したい。おばあさんの孫の話から、自分の言葉で入りたい」 「わかりました。それが良いと思います」夕方、フィオナが「少し歩かないか」と言った。
王都の街を、二人で少しだけ歩いた。 ゴードンは宿で書類の最終整理をしていた。 冬の王都は、空気が冷たかった。石畳に霜が残っていた。 ルシェムより人が多い。でも、今日の街は少し静かに見えた。自分が静かなのかもしれない、とエリナは思った。 「明日、緊張しますか」 フィオナが歩きながら言った。 「する」 「いつもより?」 「いつもとは違う種類の緊張です」 「どう違う?」 「いつもの緊張は、失敗しないように、という緊張だった」エリナが言った。「でも明日のは、それだけではない」 「何が加わった?」 「届けたい、という緊張かもしれない」 フィオナが少しだけ歩調を緩めた。 「届けたい?」 「父が残したものを、届けたい。ルシェムのおばあさんの言葉を、届けたい。一年間、みんなが積み上げてきたものを、届けたい」 「それが、今日の緊張の種類?」 「そう思います」 フィオナが少しだけ黙って歩いた。 「私はずっと、あなたが怖いものを知らない人間だと思っていた。最初に会った時から」 「怖いものだらけです」 「でも、怖がっているように見えなかった」 「怖がっている時間が、もったいないから。怖いなら、動く方が早い」 「それが、あなたらしい。でも、今日のあなたは少し違う。緊張しているのが、見える」 「見えますか?」 「見える。でも、悪い緊張じゃない。届けたい、という緊張だから」 二人で、しばらく石畳を歩いた。 「フィオナ」 「何?」 「王都に一人でいて、この一年、どうでしたか?」 「聞くのね」 「聞きたかった」 フィオナが少し考えた。 「正直に言う。最初の二ヶ月は、孤独だった。知っている人間がいなくて、一から信頼を作らないといけなくて、疲れた」 「そうでしたか」 「でも、その後は変わった」 「何が変わりましたか?」 「あなたたちの手紙が来るたびに、ルシェムが動いているのがわかった。私が王都で集めた情報が、ルシェムで使われているのがわかった。私がここにいる意味が、見えた」 「意味が見えると、変わりますか?」 「変わる。自分がやっていることが、何かに繋がっていると思えれば、孤独でも続けられる」 「それは——」エリナが少し考えた。
「私も、同じことを感じていたかもしれません」
「どういうこと?」 「ルシェムで石鹸を作っていた時も、一人だった。でも、マリオが来て、ルナが来て、ゴードンが来た。繋がっていくことで、動けた」 「孤独から始まって、繋がっていく。それが、二人とも同じだったんだね」フィオナが言った。 「そうかもしれません」宿に戻ると、ゴードンが書類の整理を終えていた。
「明日の持ち物は、全部確認しました。確認書、データ、ベルダンの記録書、王都のデータ。全部、揃っています」 「ありがとうございます」 「エリナさん、明日、私はゴードンとして立ちます。アッシュフォード商会の代表として」 「はい」 「でも、その名前を使うのは、今日が最後かもしれません」 エリナは少しだけ止まった。 「どういう意味ですか?」 「明日、報告が終われば、商会の代表は正式にエリナさん自身に移すことができます。年齢の制限が残るかもしれませんが、陛下が認めてくれれば、可能です」 「考えていませんでした」 「考える必要があります。今日のうちに」 エリナは少し考えた。 アッシュフォード商会の代表を、自分の名前で持つ。 ゴードンに頼んで始めた商会だ。でも、ずっとそうするつもりではなかった。 「明日の報告の中で、陛下に確認してもらうことはできますか?」 「できると思います。アルバ殿下に事前に伝えておけば、その話を場に出すことができます」 「今夜、殿下に連絡を」 「手配します」夜、エリナは机に向かった。
明日のことを、もう一度頭の中で確認した。 謁見の間に入る。おばあさんの孫の話から始める。学院のデータを中心に据える。各町のデータを補助に使う。第四部の提言で締める。師匠が発言する。 やることは見えている。 落ち着いている。 少し、緊張している。 でも、届けたい、という気持ちが、一番大きい。 エリナは荷物の中から、昨夜書いた手紙を取り出した。 レインへの手紙。 明日、謁見の間で渡す。 封筒を手の中に持って、少しだけ考えた。 明日、レインがそこにいる。 同じ部屋にいる。 エリナは封筒をそっと、上着の内ポケットに入れた。 明日、渡す。寝る前に、セレーナへの短い手紙を書いた。
お母さんへ 今夜、王都にいます。明日、謁見の間に立ちます。 出発の朝、お母さんが言った言葉を、今日ずっと持っていました。 『遠くを見ながら、ここも見ている』という言葉。 ここも見ています。ルシェムを。お母さんを。 必ず帰ります。 ――エリナ―― 書いて、封をした。 これは、帰ってから渡す。 でも、書いておきたかった。ランプを吹き消した。
王都の夜は、窓の外が少し明るかった。 街の灯りが滲んでいた。 明日の朝、謁見の間に向かう。 父が何度も歩いた道を、今度は自分が歩く。 怖い。 でも、届けたい、という気持ちの方が大きい。 同じ部屋に、レインがいる。 謁見の前に、フィオナと十分話せる。 ゴードンが隣にいる。 一人ではない。 エリナは目を閉じた。 眠れるかどうかわからなかった。 でも、眠れなくてもいい。 静かに、明日を待つ。 エリナ・アッシュフォード、八歳。 明日、父が夢見た場所に立つ。 それが今夜、一番確かなことだった。フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」 エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」
翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。 どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」 エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」 それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。 目が覚めた時、空はすでに明るかった。 珍しいことだった。 いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。 しばらく、布団の中でそのままいた。 これも珍しいことだった。 起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。 でも今朝は、少しだけそのままいた。 窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。 市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。 帰ってきた、と思った。 昨日も思った。でも、今朝も思った。 ここが、自分の場所だ。 台所に行くと、セレーナが先にいた。 「おはよう」「おはようございます」「よく眠れた?」「はい。遅くまで眠っていました」「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」「そうかもしれません」 薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。 冬の朝の空は、澄んでいた。 「お母さん」「うん」「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」「何?」「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」 セレーナが少しだけ手を止めた。 「それって、どういうことになるの」「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」「そうなるかもしれません」「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 エリナは少しだけ考えた。 「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」「この前も同じことを言ったわね」「同じこ
翌朝、エリナは早く起きた。 今日、ルシェムに帰る。 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。 全部、ある。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。 「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」「聞きますか?」「聞く。でも、今は聞かない」「なぜですか?」「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」「どんな顔をしていますか?」 ゴードンが静かに言った。 「昨日フィオナが見たかった顔」 出発前に、フィオナと二人になった。 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。 「フィオナ、これからどうするんですか?」「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」「そうですね」「でも、今日は違う話をしたい」「どんな話ですか?」「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」「ルシェムに?」「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」「来てください、必ず」「いつ行けるかはわからない。でも、行く」「待っています」 フィオナが少しだけ笑った。 「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」「言いました」「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」「そうかもしれません」「いい変化だと思う」 フィオナが手を差し出した。 エリナはその手を両手で握った。
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。 アルバ殿下が廊下で待っていた。 「よくやりました、エリナ殿」「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」「王都のデータは、効きましたね」 殿下が少し笑った。「右側の列が、ざわついた」「見えていました」「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 「殿下、商会の代表についてお願いがあります」「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」「ありがとうございます」「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。 師匠がエリナに言った。 「一つだけ言っておく」「はい」「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」「ぜひ」「クロヴェルへの返答だ」 師匠が静かに言った。「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。 「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」「届きましたか?」「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」 師匠が一歩退いた。 「俺はこれで失礼する。よくやった」「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」「礼
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。 眠れると思っていなかったが、眠れた。 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。 ルナが持たせてくれた葉を使った。 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。 王都の夜明け前。 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。 今日、謁見の間に立つ。 もう一度、確認した。 怖い。でも、届けたい。 それだけでいい。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく静かだった。 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。 「緊張してる」「フィオナが?」「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」「なぜですか?」「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。 「フィオナ」「何?」「今日、謁見の間に入れますか?」「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」「そうでしたか」「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」「どんな顔をしていると思いますか?」「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。 手紙が、ある。 フィオナが言った。 「今日の目標を、一つだけ確